Amazonを眺めて気づくこと
Amazonの書評を見ていると思うことがあります。1冊の同じ本を読んでも、その受け取り方は様々なんだなぁと。
「すごく感動しました」「私のバイブルです」という意見もあれば「くだらない」「お金の無駄」という意見もあったりする。当然、星5の人もいれば星1の人もいる。そのほかの商品にしても「とても気に入ってます」「買ってよかった」と書いている人もいれば「使えない」とかひどいものでは「詐欺だ」だとか書いていたりもする。同じものなのにどうしてこんなに違う意見が出るのだろう?
つまり、物事は受け取り手によって変化するということ。受け取る人の経験や知識、在り方、性格、環境、コンデション、タイミング…。そんなフィルターを通して、ひとつの事実が全く違うものになる可能性があるということ。
人はそれぞれ違うのだから、様々な感じ方や意見があっていいのだと思う。「そう感じた」というのは事実なんだから。だけども、自分と違う意見を持つ人を「それはおかしい」と否定したり、ましてや攻撃したりすると、世界が狭くなってしまう。
相手を尊重しつつ、自分の意見はしっかり持つ。それって意外に難しいことだなぁ。
なにが正しいとか、なにが間違ってる、とか、そういうのって、とっても「不確か」なものだから。
ややこしすぎる『YES』と『NO』
例えば、これはインドに行ったことがある友達に聞いた話なんだけど「インドの人って『YES』のときに首を横にふるからビックリしたわ〜」とのこと。「へぇ〜!そうなんや!」と驚きました。確かに慣れるまですごく頭が混乱するだろうな(笑)日本人の常識では『YES』のときは首を縦にふる。でもインドの人は『YES』のときに首を横にふる。そしてそれは私たちにとっての『NO』
これはただ、それぞれの常識が違うというだけ。それを「いやいや、ふつうは『YES』のとき首を縦にふるでしょ?あなた間違ってるよ」なんていうと、相手の文化を尊重できてないし、争いのモトになる。
まぁとにかく、世の中、そんな例は数えられないくらいあるわけで。
そこに「愛」があるのかい?
とにかく、人それぞれ様々な感じ方や意見がある。なにが正しいのか?間違ってるのか?脳ミソで考えても、結局は「よーわからん」「神様だけが知っている」っていうことが多すぎる。
だけども、人は感じることができる。そこに「愛」があるのかどうか。それを感じることができれば、たとえ感じ方や意見が違っても、きっと大丈夫なんやと思う。そしてもっと言うと、その「違い」が「彩り」となる。やっぱり世界は愛があってカラフルなのがいい。今日はつくづくそれを感じた日でした。
そういえば、あんなにマズくて嫌いだったミョウガがこんなに美味しく感じる日が来るなんて夢にも思わなかった。ミョウガを美味しいと感じるか、マズイと感じるのかは、食べる人によるということ。B型のハマリ症で、最近恐ろしい頻度でミョウガを食べています(笑)