プロフィール

私が34歳で助産師になったワケ(1)

「なんで、助産師になったの?」
この質問、よくいただきます。

 

「自分自身が
妊娠・出産・子育てと
色々つまずいて・・・

 

そのとき、とにかく
相談できる人が欲しかった
大丈夫って言って欲しかった

 

だから
自分がそういう人になれたらと・・・」
と伝えています。

 

では、いったい
何が大変だったのか?

 

そんなに特別なことはないのです
子どもは、病気もせず元気です
それだけで、感謝なのです
幸せでした。ずっと・・・

 

それでも、やっぱり
ちょっぴりしんどかった

 

みんな、それぞれに
色々あると思います

 

私のしんどかったことを
振り返ってみたいと思います

 

一度、自分の原点を見直すためにも
まとめてみます

長いです・・・

 

 

【第1子の妊娠&切迫早産】

 

私は、第1子を妊娠したとき
毎日朝から晩まで
バリバリ仕事をしていた

 

お腹が目立ってきても
バタバタ走り回り
忙しいのを理由に
母親教室のたぐいなど
いっさい行っていなかった

 

お腹の赤ちゃんのこと
すごく大事に思ってたけど
とにかく、精神的にも
経済的にも余裕がなかった

 

かなりストレスも
かかっていたように思う

 

実は妊娠中期、
夫の働いていた職場が
無くなってしまった
夫は無職になった

 

大学をでていても
そんなに仕事はない

 

これから、子どもが産まれるのに
どうするんだろう?

 

そうおもいながらも
若いふたりは
そんなに落ち込むこともなく
「何とかなる」とそれぞれに
言い聞かせた

 

でも、ときどき
「これからどうなるんだろう」
って眠れない日もあった

 

9か月の産休に入るまで
仕事は続けるつもりだった
お腹はよく張ってたけど
こんなものだと思ってた・・・

 

でも、妊娠8ヶ月のある日
出血した

 

病院に行ったら、
「子宮口が柔らかくなっている」
ということで即入院となった

 

そのまま、仕事には戻れなかった

 

「あー赤ちゃんに悪いことしたな」
意味もなく、自分を責めてみたり・・・
暇で憂鬱な入院生活を送った

 

24時間持続点滴
トイレに行く時も点滴と一緒
お腹の張り止めの薬の副作用で
心臓がバクバクし、手は震える

 

妊娠したら順調に経過するもの
と疑ってなかった私は
この現実に
なんか、変な劣等感も抱いた

 

「この際ゆっくり休もう」
なんて思えなかった
ただ、焦ってた

 

やっと、退院になっても
「自宅でも安静に」ということで
実家にしばらく帰ることにした

 

10ヶ月に入り
「もう、動いてもいいよ」
といわれた

 

けれども

 

ずっと安静にしていた私は
体力、筋力が衰えており
近所の散歩に行くのにも
息切れと立ちくらみ
といった具合だった

 

それでも運動して
体をもとの状態に戻そうと頑張った

 

 

【義父の死】

 

そんなとき、
夫の父親がくも膜下出血で倒れた
義父は、10日間くらい頑張ったが
意識のもどらないまま他界した

 

49歳。
娘が生まれる4週間前だった

 

何も話さないまま
亡くなってしまった
初孫がもうすぐ産まれるというのに

 

子どもが大好きなお義父さんだった
誰よりも孫の誕生を
楽しみにしていたと思う

 

夫は泣かなかった
お葬式も、淡々と喪主をこなした

 

でも
お義父さんが亡くなって
数日経ったある日
車の運転中、突然、嗚咽した

 

私は、何もかける言葉がみつからず
ただ、その時間を共有した
手を握ることしか
私にはできなかった

 

夫が泣いたのは、後にも先にも
この時だけだった

 

夫の精神状態は
ギリギリだったと思う
この車はどこに向かっていくのか
まったく、わからなかった

 

私たちは真っ暗な闇を
走っていたのかもしれない
ストレスフルだった
どうしたらいいのかなんて
わかるはずもなかった

 

でも、お腹の子が
きっと、きっと、みんなの心に
あかりを灯してくれると
信じた・・・

 

だから、明るく頑張ろう
そう思った

 

 

【予定日を過ぎて】

 

そんなこんなで月日はながれ
今度は予定日過ぎても
陣痛が来なかった

 

切迫早産で入院してた私
「まだ産まれちゃダメ」と
入院中、毎日祈ってたのに
まさか、予定日を過ぎるとは
夢にも思わなかった

 

うまく行かないことばっかりで
気持ちは焦り、
周りの「まだ?まだ産まれないの?」
の声にイライラさせられた

(2)につづく